道の駅北川はゆま

なぜ清太を嫌う日本人がいるのか-『火垂るの墓』

映画
©野坂 昭如 /新潮社,1988

悲しすぎて二度と見たくない傑作――。

多くの人が『火垂るの墓』をこう表現します。主人公の兄妹、清太と節子の運命に涙を流さない人がいるでしょうか。けれど一方で、清太を批判し、嘲笑し、嫌う人々も存在します。決して少数派とは言えず、無視できないほどの人数がそう感じているのです。そしてその多くは日本人の観客です。

誤解のないように言っておきますが、私はその立場では全くありません。清太と節子はまぎれもなく戦争の被害者であり、深い悲しみを覚えずにはいられません。そして二度と戦争などごめんだと強く願います。清太がここまで厳しく批判されるべき存在ではない――それが私の意見です。この記事はあくまで、日本人が抱きがちな清太へのネガティブな感情を紹介・説明し、そのうえで真っ向から異を唱えるものです。

■なぜ清太は嫌われるのか

清太が嫌われる主な理由は「上手く立ち回らなかったから」とされています。母親を空襲で亡くした後、遠縁の西宮のおばさんの家に身を寄せても働かず、ぶらぶらして食べるだけで感謝を示さず、生意気な態度を取った。あげく意地になっておばさんの家を出ていき、結果として節子を死なせた。最終的に自らも衰弱死したのは、誤った選択をした清太自身の責任だ――おおよそ彼らの主張はこのようなものです。

しかし、すでに違和感を覚えた方もいるでしょう。「彼らは14歳と4歳の子供じゃないか!」と。思い出してください。二人は空襲で家を失い、すぐに母親も亡くしています。清太は節子を悲しませまいと母の死を隠し、自分の中に留めています。すべてを一気に奪われた子供たちなのです。

清太を責める声のひとつに「14歳なのに社会や国のため、おばさんの家のために何もしない」というものがあります。しかし作中で示されている通り、彼の学校も工場も空襲で失われていました。14歳の子供に一体何ができるのでしょうか。むしろ「14歳の子供が働かないといけない社会」自体がおかしいとは思わないのでしょうか。

■おばさん同情論、清太擁護論

夕食のシーン。多くの人が見逃しやすい部分ですが、よく見ると清太と節子の分には具が少ないのです。清太がおばさんから器を受け取るときに一瞬動きを止めるのは、そのことに気づいたからです。それでもおばさんは平然と器を差し出し続け、清太は言葉を飲み込みながら受け取ります。その一方で、下宿している男性と娘の器には具が多く入っています。これは監督の意図的な演出(絵コンテに記載があります)であり、二人が不当に扱われていることを示しているのです。

©野坂 昭如 /新潮社,1988
©野坂 昭如 /新潮社,1988
©野坂 昭如 /新潮社,1988
©野坂 昭如 /新潮社,1988

前述の通り、「二人は働いていないし、国のためにもなっていないのだから食事が少なくても当然だ」という批判があります。そして、それを根拠におばさんの行為を擁護する人も少なくありません。ですが忘れてはならないのは、清太は自分の家の焼け跡から保管していた食料をきちんとおばさんに渡していたという事実です。つまり、食卓の具の一部は清太が提供したものでもあったのです。それにもかかわらず、二人の取り分は明らかに少なくされていました。

さらに、その不均衡に気づいていた人物がもう一人います。おばさんの娘です。彼女は隣で節子が具の入っていない器の中をけなげに探っている様子を見て、はにかむような表情を浮かべます。そこには罪悪感の片鱗がにじんでいました(これも絵コンテに記載があります)。もちろん状況を考えれば仕方のない部分もあります。しかし、子供に十分な食べ物を与えられず、自分は多く食べられるということに後ろめたさを覚える――そうした感覚は多くの人にとっても理解できるはずです。けれども、おばさんに共感することに意識が向きすぎて、清太が置かれた立場や不公平さに目を向けられない人も少なくありません。娘の良心の呵責も気づかない。その結果、清太は厄介者、あるいは悪者のように扱われてしまうのです。

©野坂 昭如 /新潮社,1988
©野坂 昭如 /新潮社,1988
©野坂 昭如 /新潮社,1988

また、西宮のおばさんを熱心に擁護する人々が見落としがちなのが、別の場面での彼女の言動です。よくある清太への批判と比較してみましょう。

「清太はおばさんにお礼を言っていない」という批判があります。しかし、おばさんも清太が家の焼け跡から食料を運んできた際、彼女はお礼を述べてはいません。それどころか「ある所にはあるんだねぇ」と嫌味のように聞こえる言葉を口にします。加えて、この場面でおばさんは清太の母親が亡くなったことを知りますが、その際に清太へのお悔やみの言葉はありませんでした。

また「清太は食べた後の食器を洗わない」という意見もあります。ですが、よく見ると食器は水に漬けられています。少し清太を擁護する立場で考えてみましょう。彼は後で洗おうと思っていたのではないでしょうか。本当に使った食器を洗う気がないなら、おばさんが後で洗うだろうとほったらかしにしていたとしたら、わざわざ水に漬けておくのでしょうか。さらにこの直後、節子がぐずる様子が描かれています。清太はまず節子を落ち着かせ、寝かせた後に洗うつもりだったと考えることもできるのではないでしょうか。

もちろん、これらの見方は清太を擁護しすぎていると受け取られるかもしれません。しかし、おばさんの側に大きく配慮して考えるのなら、清太の側に立って想像力を働かせることも決してアンフェアではないはずです。

仮にそれでもまだ清太が悪かったとしましょう。では、おばさんが清太に黙って節子に母親が死んだことを伝えたことについてはいかがでしょうか。節子のために秘密にしていたことを、清太の了承を得ずに明かし、さらにそのことを清太に伝えることすらしなかった。この点も含めて、おばさんが「いじわるな人間ではない」と評価するのは、私には難しく思われます。同時におばさんを吊るし上げろとも思いません。

■弱い立場の人間を攻撃する傾向についての考察

なぜこれほどまでに清太に対して強い非難が向けられるのでしょうか。要因はいくつも考えられますが、その一つには日本社会が以前よりも貧しくなっていることがあると思います。経済的にも精神的にも余裕を失い、他者を思いやったり、弱い立場にある人を助けたりする力が乏しくなっている。その代わりに「コスパ」や「タイパ」といった効率を重視し、自分の身の回りさえ整っていればよいと考える傾向が強まっているように見えます。しかしそれでも経済状況は改善せず、多くの人が実感として生活が豊かになっていない。先行きにも明るさが感じられない。そうした閉塞感の中で、矛先は弱い立場の人々や少数派の方々に向かい始めます。

日本では以前から生活保護受給者への強い反感が存在しています。また前回の2025年の衆議院選挙では外国人労働者に不満や敵意が向けられ、それが選挙結果に大きく反映されることとなりました。

もちろんすべての日本人がそうだというわけではありません。しかし、決してごく少数とはいえない人々が、弱者や外国の人々に対して快くない感情を抱いています。それは『火垂るの墓』の清太に向けられる批判にも通じます。「社会にとって役に立たない」「周囲を脅かす」「輪を乱す存在」とレッテルを貼る。けれども、そうした状況を作り出している本質的な要因――政治や国際情勢――に目を向け、冷静に考えたり批判したりする力や思考が育まれていない。

今回SNS上での多くの反応を見て、私は日本が少しずつ全体主義的な方向に傾いているのではないかという懸念を抱きました。弱者や困窮している人々に共感を示せない人々は、全体主義の中で弱い者いじめ、少数派を迫害する役割を果たしてしまうでしょう。英語圏の感想を探しても「清太も悪い」という意見はまず見かけません。私が海外の知人や友人にこの「清太が悪い論」を紹介すると、皆一様に驚き、戸惑います。それがむしろ自然な人権感覚ではないでしょうか。しかし日本には、人権よりも生産性、利益等を優先し、社会や経済に寄与しない人々、弱い立場で嫌な思いをしている方々を思いやることを無駄とみなす人々がいる。『火垂るの墓』は35年以上を経ても、その現実を鋭く浮かび上がらせているのではないでしょうか。

清太を強く非難する人々の心の奥には、自分が責められているように感じる心理があるのかもしれません。あるいは、大人になるにつれ「おばさんの気持ちもわかる」と以前とは異なる視点を得たことへの快感に酔っているのかもしれません。確かにその感覚は理解できますし、私自身もその酔いを楽しむ時は何度もあります。ただ、それだけで清太を悪人のように扱い、強い嫌悪感を抱く理由にはならないでしょう。おばさんに同情する気持ちは理解できますが、そこから「清太が悪い」論へ着地する考え方はやはり理解しがたいです。

清太にヘイトを向ける人々の中には「自分が西宮のおばさんの立場だったら同じ行動をとるだろう」と考える人もいますが、それは本当にそうでしょうか。実際には、もっと冷淡で厳しい態度をとるかもしれない。

『火垂るの墓』には、戦争や政治権力ではなく、清太のような弱者を忌避する人々そのものが描かれています。冒頭、駅で衰弱した清太を見て「汚い!」「アメリカ軍が来るというのに…」と吐き捨てる人々こそ、現代のSNSで弱者を攻撃する人々の姿と重なります。

ここまで述べてきましたが、もし私の解釈が誤りだとしても、それはそれで構いません。ただ私は、自分の良心や倫理観に従いたいのです。もちろん私自身も弱さを持ち、過酷な状況では望ましくない振る舞いをしてしまうかもしれません。そうした居心地の悪さ、もっというと恐怖こそ、大人になってから観る『火垂るの墓』が突きつける力だと思います。

重要なのは、それらを弱者への憎悪に変えるのではなく、清太や節子のような存在を二度と生まないように願い、行動することではないでしょうか。たとえその思いや力がほたるの光のように儚く短いものであっても、私は胸に宿しておきたいです。