道の駅北川はゆま

“Lonesome”

映画

規則正しく慌しく駆け巡る、都会仕掛けの雑踏の中で孤独を密やかに抱えていた二人の男女がビーチで出会い、コニーアイランドでデートをする様子を追っただけの真の意味でのデートムービー。1928年公開のサイレント映画で、今尚日本では未翻訳。

■サイレント後期の特殊な演出たち
タイトルの”Lonesome”とある通り、この映画は主役であるジムとメリーが如何に多くの人に囲まれた中で孤独を感じているかを彼らの日常を交互に映しながら描写していきます。ジムは機械を用いた単調な仕事を繰り返し、メリーは電話交換手の仕事を慌しく、しかし単調にこなしていきます。彼らの同僚は待つ人がいて、仕事帰りにそのまま遊びに出掛けて行く様子を二人は羨ましさを込めた横目を投げかけます。都会のジャングルが生み出す、大衆の中の孤独をものの見事に序盤で切り取り、90年経った今でも私たちの心に届く切なさを描いています。

そんな彼らがビーチでパーティがあると知り、意気揚々と出掛けていきます。そこでジムとメリーは出会い、お互い似た寂しい心抱えた二人は少しずつ惹かれていきます。


そこでひっくり返るような事が起きます。なんと二人が喋り出すんです。事前にこの映画はサイレント映画だと書きましたが、実はパートパートでトーキーになるんです。それがなんの前触れもなく、ふっと変化するのでこの異様、かつ不思議な感じは正にサイレント映画とトーキー映画の過渡期の作品らしい演出ですね。


これは最初から意図された演出ではなく、前年にトーキー映画としての第一号(実際は違います)『ジャズ・シンガー』が大ヒットを飛ばした為、この”Lonesome”にも付け加えられました。このトーキーパートが入り込むのは賛否両論があったようですが、私はアリだと思います。実際この頃の映画ではこのようにパートトーキーの作品がいくつかありますが、この映画のトーキーへの突然の変化は観客に驚きを与えることに成功しています。それは今なおも、そしてより強く。


そんな時メリーがいつの間にか指輪が無くなっていることに気づきます。二人で協力して、ビーチを探し回った結果無事見つかるのですが、ジムはガッカリしています。彼女は既婚者なのか…私の孤独とは違うのか…と感じたからです。そんな様子を察したメリーはジムに指輪を渡して「ここに彫ってある文字、読んでみて」と言います。そこには「愛する妻へ」の文字が。殊更失望するジムにメリーは「母から貰ったの」と種明かし。ジムは大喜びします。この何でもない冗談が映画の中でしっかりと機能しているのはやはりサイレント映画ならではの台詞を廃した表現ならではでしょうね。もしトーキー映画でこれをやったら大げさに感じるか、もしくは台詞で説明しちゃうでしょうね。「えっ、結婚してるの?」なんて言わなくていいんですよ。


その後二人はコニーアイランドで楽しいデートをするのですがここでもう一発驚く仕掛けが振りかけられています。なんとパートカラーになるんです。サイレントでモノクロの映画かと思いきや、夜のコニーアイランドをぼんやりとした優しい色合いで映し出し、まるで二人の見る世界が少しだけ色付いた感じを追体験しているように。特に月とお城が金色に輝いている側で二人が踊っているシーンはトロける程ウットリします。他にも唄を聴くシーンでは基本この映画はサイレントなので曲が流れる代わりにメロディーラインと画面にその曲の楽譜と歌詞が映し出されるのですが、これもまぁ洒落オツでいいんですよ。

■誰もが共感できるサスペンス
しかし、順調なデートに突如緊急事態が襲い掛かります。二人が乗ったジェットコースターに火がつき、興奮のためにメリーは失神してしまいます。急いで駆けつけようとするのですが、間違いによってジムは警備室に連れて行かれます。何とか誤解を解き、釈放されるとメリーの姿はそこにありませんでした。そこで初めて気づくのです。連絡先を交換していなかった事を!


ここからは二人が再び巡り逢えるかどうかのサスペンスが始まります。正気を取り戻したメリーもまた多くの観客で埋め尽くされているコニーアイランドの中をジムを求めて探し回ります。二人が事前に撮った小さな写真を店員に見せて、何とか探し出そうとするも見つからない。終いには突如天気が崩れて大嵐となりますが、その中でもジムとメリーはお互いを探し求めます。せっかく逢えたソウルメイトなのにこのまま会えないなんて!そんなのは嫌だと。


しかし、結局二人はお互いを見つける事はできませんでした。びしょ濡れになり、失望を肩にぶら下げて家に帰る二人。そこでカメラは映画の冒頭と同じく孤独な二人を交互に映します。しかし、今回の孤独は最初の孤独とは違った孤独であり、激しい気持ちを伴った寂しさである事を一切説明せずに演技で見せるこの鮮やかさに涙が出ました。


占いでジムは「今日、あなたが心の底から求めていた人と出会うでしょう」と出ていたのですが、確かにそれは叶うも、何でこんなに悲しい最期を迎えなきゃならんのだ!とその紙を破り捨てます。そして独りの夜を癒すべく、レコードに手を掛けて、コニーアイランドで聴いた”Always”という曲を流し始めます。すると隣から「うるさい!」とドンドン怒鳴る声がします。そこでジムはハッとして隣の部屋に行くとそこにはメリーが居ました。二人は無事再会することができましたという結末で幕が降ります。


この結末が非常に上手い点が二つあります。確かに「いやいや出来過ぎでしょ、都合良すぎでしょ」というツッコミもわかります。ただ、都会の中で過ごす人はきっと共感できる「隣に住んでいる人が誰だかわからない」というよく考えると異様な都会の状況を上手く使ったんです。なので二人がこれまで顔を見ることがなかった事もあながちあり得なくはないし、もし見ていたとしても都会の生活の中で課せられる義務や業務から解放された彼女の姿を見ることができたからこそ恋に落ちたとも考えられますね。


そして、もう一つは曲の使い方です。コニーアイランドで”Always”がかかる時には歌詞は直接聴こえないのですが、最後にレコードから流れる時にはトーキーになって歌詞が聴こえてくるんです。まるでこの時の心情の方が、真の意味で聴いている状態を表現しているかのようです。パートトーキーを非常に上手く使った今はほとんど失われた演出が見事に最後光ります。

実際この映画は興行的に大成功し、作品自体の評価も高かったようです。後にこの作品は「ネオリアリズムの先駆け」とも称しています。前年に公開された『メトロポリス』内では機械によって単調な業務を強いられる労働者を戯画化して映し出していましたが、この映画では冒頭でリアルな日常の中で人が行う労働が機械仕掛けになってゆく様子を描いている点がその指摘の根拠でしょう。その姿に時計の針が進む映像を被せるのもまた面白い演出です。

それにも関わらず、この作品を観るのは長年困難だったらしく、映画祭やビデオでの販売のみでしか鑑賞できない忘れられた傑作でした。しかし、今ではクライテリオン社からDVD, Blu-rayにて販売され、今再評価が新しい観客たちから得ています。

■最後のひと言
私は殆どの映画のジャンルが好きです。映画が好きと答えると「どのジャンルが好きですか?」と聞かれますが、私はいつも「古今東西何でも観ますよ、ラブロマンス以外はね」と返します。他人がイチャイチャしている様子なんて観て一体何が楽しいんじゃい。よくわざわざお金払って怖い思いをホラー映画とかを観て味わおうとする気が知れないと聞きますが、私はむしろお金払って真っ赤な他人のカップルが幸せそうな姿を観に行く方が理解しがたい。なぜならそれは自分の身体と心で直接リアルに体験した方が何千倍も楽しいに決まっているからですよ。


しかしこの”Lonesome”はそれを見事にひっくり返してくれました。こんな気持ちを抱えた私ですら、二人のデートをただ寄り添い映した映像と演出にやられてしまいました。この映画は二人のたった一日の姿を映しています。朝起きて、昼は仕事して、夕方デートして、夜また巡り合って夜の帳と共に幕が降りる。たった一日のデートを描く映画としては『ローマの休日』という傑作が後に生み出されますが、この作品は孤独な者たちがたった一日の中でどれだけ満ち足りた気分にも切ない気持ちになるかに焦点をあてたことに独自性があります。ある意味では感情のジェットコースターとも言えると思います。しかし、そこには奥ゆかしいバックミュージックと、最低限ささやかれる台詞、二人がいる時間だけ彩られる色彩が、ハッピーエンドのゴールまで寄り添ってくれるのです。