道の駅北川はゆま

ギヴァー/記憶を注ぐ者

映画

そこに住む人々の生活、職業、感情、そして生死までもがすべて管理されている完璧な社会。職務を授けられる年齢になった主人公ジョナスは、他の友人たちとは異なる特別な任務を授かることになる。その名は“レシーヴァー”。彼は過去に存在していた記憶を“ギヴァー”から受け取り、やがてこの管理社会の真実の姿を知ることになる。児童文学作家が青少年向けに書かれた近未来SF小説にも関わらず、多くの年齢層から広く読まれたディストピア小説の大ベストセラーを映像化。

■映画への総評

『ギヴァー/記憶を注ぐ者』は1993年に出版されて大ヒットを記録した小説を基に21年の時を経て2014年に映画化されました。この作品にはジェフ・ブリッジスが物語上重要な役割を担う記憶の送り手である“ギヴァー(Giver)”を演じていますが、実は彼こそがこの基となった小説“The Giver”の映像化権を獲得した人物です。元々は彼の父親ロイド・ブリッジスにこの役を演じてほしかったようですね。

さて、内容についてなのですが、確かに見やすい作品に仕上がっています。時間も長くなく、テンポよく進み、俳優たちの演技も、ディストピア世界の造型もしっかりとできています。そして最もその他のディストピア系の作品と一線を画すとすれば色の使い方でしょう。

この映画の社会では各々の個人が感情を薬によって抑圧されている設定になっており、美しいだとか綺麗だとか、怒りだとか嫌悪などを抱くことはありません。それに伴い、色彩を認識する機能も奪われてしまっています。故にこの映画は白黒の映像で始まります。そして主人公であるジョナスがギヴァーから色に関する記憶(彼が受け取る記憶はギヴァー個人の物ではなく、全世界の記憶という設定です)を授かってから身の回りにある“赤”を認識し始めます。そこから少しずつ映像に色が宿っていく様子を白黒からカラーになっていく演出を施しています。

映画をよくご覧になられる方なら『カラー・オブ・ハート』という映画を思い出すかもしれませんね。映画は『カラー・オブ・ハート』が1998年制作なので先駆けています。しかし、この演出は既に基となった小説の中で施されているので、アイデアとしてはこちらの方が早かったですね。これまで味えなかった感覚を得ることにより、世界が彩り始めていくという演出はね。

さて、全体的な総評をすると中々いい作品です。ディストピア世界の雰囲気を作り出すのに無機質な建物による美術、原作ではほとんど出てこない役に抜群の存在感を宿したメリル・ストリープの佇まいと、ジェフ・ブリッジスが安定して魅せる演技、など見どころは多くあります。しかし目新しさがないと言ってしまえばそうで、どこか既視感を拭いきれない所はありました。一番の問題はテンポが良すぎるところです。小説を読んでいる人からすれば物語の省略は中々うまく行っているんですが、いかんせん説明が足りないところや、衝撃を伴う真実が明らかになる過程のタメが足りない、いや、全くない所が非常に残念だなと思います。

ともあれ、十分に勧められる映画ですし、ヒロイン:フィオナを演じたオデイア・ラッシュも可愛く、ケイティ・ホームズが演じる主人公の母親の迫力、そしてテイラー・スウィフトがこれまた重要な役で登場しているのでご興味のある方は是非。

■感情を描写する言葉への警鐘

さて、こんな熱量の作品をなぜわざわざ取り上げたのかというと原作小説と映画の違いが自分に取って非常に興味深かったからです。

自分はまず小説版を読んだ後、すぐに映画を拝見しました。ディストピア世界からの逃亡というずっと昔から映画では度々作られ続けているジャンルの一映画として楽しむことができたのですが、小説を読んでいる時に浮かんでいたテーマが映画を観ている時には見えてきませんでした。

それは“自由意志”への問いかけです。すべてを管理されることにより、人々は“選択をする”という責任から逃れられることができるという事は確かに描かれています。しかし、映画版に関してはこの管理社会からの脱出と赤ん坊の命を救うサスペンスに焦点が行く為、この“自由意志”に関して考察を促すような要素が抜け落ちているように感じました。

映画内、小説内で何度も繰り返される言葉の一つに「正確な言葉を使いなさい」と指摘するシーンが多々あり、映画のハイライトは主人公ジョナスが両親に対して「僕の事を“愛してる”?」と聞くと「正確な言葉を使いなさい」と母親から注意され、父親から「私たちがお前を誇りに思うと聞いているのなら、イエスだ」と返すシーンでしょう。つまり、愛という概念はこの社会から奪われている事を描写しつつ、愛とは何かを考えさせる問いにもなっています。なぜなら簡単に答えられない質問だから。私達は知っているはずだと思っていても。

しかし、私が小説版で言葉の正確さについてハッとしたのは主人公ジョナスが、まだこの世界に管理されて記憶の受け取り手になる前に、自分の感じた感情に対してピッタリと当てはまる感情を見つけた時、大きな喜びを見つける一節です。確かに、物を書いている時に脳裏に浮かぶ考え方にカチリと当てはまる表現を見つけた時は気持ちがいいものです。ただ、ここで私がゾッとしたのはこの世界では言葉にできない感情というものが許されていないということです。

私たちの感情は決して喜怒哀楽などで明確に分けられるものではなく、いくつかの感情が入り混じったものや、自分では持て余すほど言葉を超えた気持ちを抱くことがあると思います。その感情を口にせずに自分の心の内に秘めて深く強くなっていくことがあります。そして簡単に口に出す感情はどんどん意味が薄れていく様子も私たちは日々のどこかで感じているはずです。

この『ギヴァー』の世界ではその感情が芽生えることを押さえつけられ、単純な形容詞でしか描写できない感情に支配されているというのがゾッとすると同時に『1984』や『華氏451』などのディストピア物と同様言葉を奪われることにより人格や自由意志にどれだけ影響を与えるのかを考察するキッカケになっています。そして『ギヴァー』の質が悪い所は、描写する言葉を見つける喜びをまだ残している所が本当に怖い。これ故に、自分が完全に管理されていることから目を背けさせられていることにより気づきにくくなっているから。映画ではこの要素はゴッソリ抜け落ちていました。

■失われたインパクト

※ここから先は原作小説を読んだ人のみに強くオススメします。

次に原作との比較で興味深かったのは情報の出し方への演出方法です。

前述した通り、映画は白黒から始まり、そこからどんどん色づき始めてゆく演出を施されていますが、確かに小説版もそのように描かれています。

しかし、ここに一つトリックがあります。この本を読み始めた時にほぼ全ての人が文章を読みながら頭の中に描く世界は色が付いているということです。そして、物語の中盤で主人公ジョナスが「これが“赤”というものなのか」と知ることによって、私達が脳裏に描いてきたこの小説の世界が間違っていたことに衝撃を受けることができるのです。この世界は色彩が存在せず、白黒の世界だったのだと。

これは映画版へのケチというより、むしろその方法しかなかったのだろうなという気持ちです。確かに最初白黒で徐々にカラーになるというのは映像的にも面白いし、世界観の説明に大きく買ってはいます。だけどそこには失われた衝撃があります。そして、映画を観た後に小説を読む人の脳裏には、無意識的に白黒の映像が浮かび上がってくるのではないでしょうか。この衝撃は小説を先に読んだ人が、そして最初の一度だけ経験できる文章によって与えられる想像の力を借りたトリックです。

また、もう一つ小説ならではの技法を使ったトリックがあります。それは音楽の使い方です。

映画版だと少し端折って描かれていますが、ジョナスはギヴァーから最初は楽しい記憶、色、それから苦しみ、痛み、戦争や死などを段階的にじっくりと与えられます。その最後辺りにようやく受け取るのが“音楽”です。ここでこの世界には“音楽”が存在しない世界であることが明らかにされます。

しかし、映画版ではオープニングからBGMがかかっています。場面場面の目指す雰囲気を助ける役割のBGMが他の映画同様、流れています。故に、映画の中盤で小説と同じく“音楽”の考え方を授かる時のインパクトが完全に死んでしまっています。これはこの物語を映像化する上で捨てるしかなかった観客への驚きでした。

そしてこの映画版の最後は管理社会の世界から遠く離れた森の中に家を見つけて、そこから聴こえる音楽と共に幕が下りるのですが、小説版では曖昧な終わり方になっています。

「ジョナスは自分が逃げてきた社会から唄が、音楽が聴こえてきたような気がした。しかし、それは恐らくただの“こだま”だった」(原文より翻訳)と聴こえてきたものがどこからやって来たのかがわからないまま、彼が目指した管理社会の崩壊がうまく行ったのかどうかがこの小説だけではわからない幕切れになっています。しかも“こだま(Echo)”という音がここでも大きく、そして曖昧な意味を持たせるために用いられているので小説内では“音”や“音楽”は非常に重要に扱われているのです。これも映像で描くのは非常に難しかったのでしょう。

■最後に

今回このレビューを書いたのは決して原作レイプだ!などとケチをつけるために書いた訳ではありません。

私が興味深く感じたのは小説が映像化する上でそぎ落としていくものと、意識せずしていつの間にか消えてしまっていくものが確かに存在するということです。それは翻訳の過程でも普通に起こることです。やはり変換にはどこか限界があるという所なのです。小説には小説だけが秘めているパワーがあり、映画には映像だからこそ届けられる力が宿っています。似た物語であっても届ける方法によって全然違ったものになる。そのそれぞれの持ち合わせた能力を受け取るレシーヴァーであり続けることが、多く存在する芸能に対する私なりの姿勢です。

最後の最後に。

この小説の最大のトリックは読者と物語の関係です。

物語は“ギヴァー(Giver)”と“レシーヴァー(Receiver)”が中心となって描かれています。

物語る者がいて、それを受け取る者がいる。もうお気づきでしょうか。

“Giver”はこの本で、“Receiver”は読者である貴方なのです。

本を読んでいる貴方も物語の一役を担っているんですよ。