道の駅北川はゆま

「オズの魔法使」-隠された意味が持つ魅力と危険

小説 > 映画

隠喩に満ちたファンタジー

1963年、ヘンリー・リトルフィールドという高校教師がアメリカ史の金ぴか時代(1870s ~ 1900s)を教室で退屈そうにしている生徒たちに教える際にいい方法を思いつきました。それは1900年に出版された児童ファンタジー小説「オズの魔法使」を使って教えるというものでした。

金ぴか時代、農業者たちは金本位制に“銀”を加えたいと考えていました。そうすれば銀行や資本家からお金を借りやすくなるからです。

「オズの魔法使」ではドロシーが銀の靴を履いて黄色の道を歩いてエメラルドシティへと向かいます。黄色の道≠黄金、エメラルドシティ≠繁栄や豊かさ、を象徴しているとリトルフィールド解釈しました。

あれっ、赤い靴じゃないの?と思うかもしれませんが原作小説では銀の靴です。恐らく映画版では折角の超大作カラー映画だったのでより華やかなものにしたかったのではないかなと思います。

さて、リトルフィールドの試みはうまく行きました。誰もが知っている物語に実は違う意味が隠されていたと云われると好奇心に灯りがつきやすいようです。

南北戦争後に復興したアメリカは一部の地域では繁栄に成功しますが、南部と中西部の農業者は苦しんでいました。そこで農業者と労働者たちは団結し、都会のエリート層に抗議をします。1896年、この動きは人民党を設立し、民主党のW・J・ブライアンが銀本位耐性のリーダーとしてポピュリズム運動を進めました。彼は1896年、1900年に大統領選挙で敗れてしまいます。

これを踏まえた上でリトルフィールドの解釈はこうです。

ドロシー ≠ 典型的な南部の少女

かかし ≠ 農業者

ブリキ男 ≠ 工場で働く労働者

ライオン ≠ W・J・ブライアン

上記のようにそれぞれのキャラクターが当時の社会情勢で起きていた動きの中にいた人物たちを隠喩し、彼らが銀の靴を履いた子供と共に都市へと彼らの要望を叶えてもらいに行くというお話だと。そして強大なもの思われていた都市の力は幻想でしかなかった、と。

頭と心が手を繋ぎ

「オズの魔法使」は実はアメリカ資本主義を崩壊させようとする批評だった。リトルフィールドのこの見解は小論として評され、このおかげで他にもこうじゃないのか、あぁじゃないのかという見解が1960年代に巻き起こりました。その他の解釈について興味のある方はこちらのURLの動画をご覧になって下さい。

ただ、動画内ではこれはあくまで解釈であって原作者のボームは意図していない可能性もあると説いています。原作小説の冒頭に「この本は子供たちを喜ばせる為だけに書かれた本です」とわざわざ記しているぐらいですからね。しかし、このように解釈の議論が巻き起こる事こそが、このファンタジー小説がアメリカから生まれた新しいおとぎ話であることを強く裏付けていると結論付けています。

さて、本題はここからです。

確かに私も解釈を考えるのは好きです。見てくれの姿が考えることによって違う姿が見えてくるのはとても楽しい。思考という鏡によって変化させることは想像への素敵な返事です。その時に確かに歴史、時代背景、作者の置かれていた状況などの知識を用いるのは非常に便利です。なぜならそれは確固とした事実だから、自信をもって繋ぎ合わせられます。

しかし、それらが明確な答えが用意されていない、いやもしかしたら問いかけてすらもいない事柄について用いる時にどれだけ有用なのか?という考えた脳裏によぎると言葉に詰まります。

そんな時にこの動画のコメントにとある人がとても素敵な文章が載っていました。その人の考えでは「オズの魔法使」は自分が持っている力についての話だと。

臆病なライオンは勇気

ブリキ男は心

かかしは脳

それぞれ欲しいものがバラバラですが、実はそれらは既にみんな持っていたじゃないか。

臆病者は勇気が欲しい、と求めることが勇気を抱くことにつながり、

心を持ちたいと願うことが、心を持っていることじゃないかとなり、

賢くなりたい思う気持ちが、実に頭がいいじゃないかと。

そしてドロシーは家に帰りたがっていましたが、彼女はその手段をずっと持っていました。彼らの願いを魔法の力で叶えてくれるというオズの魔法使いはとんだ詐欺師で、実際彼らは自分が持っていることに気づかなかっただけでした。

つまり、願う気持ちが芽生え、抱き、行動することが誰もが持つ銀の靴で、魔法なんかの力よりもはるかに自分が行きたい道へと歩ませてくれるのだと。

これは一切社会背景とか知識などから出てきた解釈ではなく、ボームが書いた小説世界の中から受け取れるメッセージです。とてもシンプル、だからこそ世界中の誰にでも理解できます。知識として頭の図書館に貯蔵するのではなく、叡知として傍に置いておきたくなります。そしてより心の奥の部分に届くような気がします。

蓄えた知識によって作品世界から大きく飛躍して他の物事や歴史との繋ぎ合わせによって、作品の持つ力を強大にするのは確かに一つの方法としてアリです。私もやります。

ただ、ほんの少し想像すれば届くもっと普遍的で掴みやすいメッセージを見落とすことにもなり兼ねないことは頭と心に留めておきたいものです。作品を味わったり、もっと好きになりたいなぁと思っている時に、「あれ、今頭しか使っていないかもなぁ」と思う時は注意したいものです。心の奥深くに届くためには知識だけでは燃料が足りないのです。

■最後のひと言

頭と心、といえばこんな話があります。

「オズの魔法使」の映画版はまごう事なき大傑作です。しかし脚色された映画が逃れることができない宿命をこの作品もまた負っています。それは原作要素の欠落です。

原作はもうちょいキツイ表現、映画には登場させなかったキャラクター等が描かれていますが、私が映画にはなくて原作にのみ存在する要素の中で最も好きなのは、かかしとブリキ男のこの会話です。

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「僕は心なんかより脳をお願いするね」かかしがこう言いました。「だって頭脳がなかったら、たとえ心なんか持っていてもどうしていいかわからないじゃないか」

「僕は心を選ぶよ」ブリキ男が言いました。「頭脳は人を幸せにはしないよ。幸せこそがこの世で一番素晴らしいものだよ」

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ドロシーは何も言えませんでした。彼女はどちらの友人が正しいのか全くわからなかったからです。

私もわかりません。

互いが手を繋ぐように持てればいいのですが。