道の駅北川はゆま

『ミッドサマー』トラベルトリップホラー

映画

バンクーバーの七月のある日、友人が私を映画に誘ってくれました。作品名は『ミッドサマー』。元々観に行こうと思っていたので、これ幸いと二人で観賞。

観終わった後、その友人と「なんじゃこれは…」と感想を交わしていた時、

「よく見たら後ろの森とか、ヒロインが着飾っていたお花が生きているように動いていて気味悪かった。気づいた?あれが何なのかわからないけど」

と私が吐露すると友人が

「あっ、そうか。お前は経験したことがないから知らないだろうね。あれはね…」

※本文にはネタバレや物語の結末に言及している箇所があります。

 ■旅行先でもう一歩トリップ

ダニーが友人ペレの故郷についた時に、イングマールという若者から何やら袋に入ったキノコのようなものをみんなで頂くシーンがあります。

ためらいながらもダニーはそれを口に入れ、友人たちと草原に座りボーッとしています。地面に置いた手を見ると、甲の部分に草木が生え始めているのがみえます。傍の木をみると表面が波打っているかのように動いています。

その感覚を味わっているとお調子者のマークが突如この言葉を口にします。

“You guys are my Family. I really mean that. You’re like real actual Family

このファミリーという言葉が耳に届いた途端、家族の死がダニーの頭に思い出させて、この酩酊状態から過去の悲しみが混ざり合って、彼女の頭を一杯にしてもはや座ってはいられなくなります。なぜいきなり彼女は動転したのかはマークの言葉を掴まないとわからないようになっていますね。

歩き出した彼女は混乱した様子ですが、ここで注意深く遠くにある森を見るとユラユラと動いています。風に揺られてそよいでいるのではなく、どこか禍々しくグニャグニャと動いています。これが前述した私が感じた気味が悪い“動き”です。

もうこの辺りでさっき食べたキノコのようなものが幻覚作用を起こすものだったんだろうなと思っていましたが、これまで観てきた映画内での薬物でキマッた描写とはどこか違う気がしました。

例えば、『21ジャンプストリート』『22ジャンプストリート』ではとてもシュールリアリスティックな幻覚が見えたり、天国と地獄によってグッドかバッドトリップかをギャグで表現しています。『アーロと少年』の中でもこの世のものとは思えないものが見え始めるというとても子供向けアニメとは思えないトリップシーンがありましたね。有名どころでは『トレインスポッティング』の天井を這う赤ちゃんなんてのも観た方の海馬にどっしりと腰を据えているのでは。

しかし、今回の『ミッドサマー』におけるキマッた状態の表現というのはどこかおとなしめ、それでいて自然世界と繋がった描写になっています。

前述したシーンでは、キノコのようなものを食べたすぐ後のシーンに幻覚が見え始めていることを描写されているためにいつ幻覚作用を引き起こすものを食べたのか明確にわかりますが、映画の後半では明確にいつ摂取したのかはわかりづらくなります。ただ、ダニーが今キマッている状態である事を示す描写が実はちゃんと描かれています。

それは花です。

メイクイーンに選ばれた際、ダニーはお花いっぱいに飾られますが、その花をよく見るとまるで生き物が呼吸をしているかのように動いています。はじめは目の錯覚かと思いましたが他のシーンでもはっきりと動いています。これは恐らくCGで付け加えられたものです。なぜそこまでして花を現実ではありえないような動き(しかも気づかない人には気づかないぐらいささやかに)をさせているのか。映像内でこのように自然に関係するもの、例えば花、森の木、草木が妙な動きをしている時は主人公内の誰かがトリップ状態であることを表しているのです。

■他の映画のドラッグ表現

映画の中はかなり昔からドラッグが登場しています。遡る事80年以上前にはチャップリンの『モダン・タイムス』の中では主人公が誤ってコカインを摂取してハイな状態になるシーンがギャグで描かれています。それから映像技術の発展と共にドラッグで決まった状態だと世界はこのように見えることを映画で表現する流れも生まれました。1967年の『白昼の幻想』は原題が“The Trip”と名の通りLSDを題材にしつつ、かなりアバンギャルドな映像や色遣いで主人公が味わっているハイな状態を追体験させようとしている映画でした。

The Trip 1967年

ただ、ホラーとドラッグをここまで密接に繋げた作品は多くないと思います。これまではコメディの中か、ドラマ内の要素、もしくは直接的な題材(薬物依存など)と繋がったことはありますが、ここまで『ミッドサマー』のようにドラッグ表現とホラーを混ぜ合わせた作品は少ないと思います。

考えても見て下さい。見知らぬ土地で、通じない原語が交わされて、社会から断絶された環境下でかなり尖ったしきたりを見せられた後で精神状態をグラつかせる薬物をいつ摂取させられるかわからない状態を。そこにある食べ物、飲み物に幻覚作用を引き起こす何かが入っている可能性がありつつも、こんな人里離れた村では他に食糧を調達できないのですから食べるしかない。超絶恐ろしいと思いますよ。いきなり殺されるよりも嫌です。

いつこの儀式やお祭りの生贄になるか?というサバイバル要素と、いつ自分の精神が望むかどうか関わらずハイになってしまうかわからない状況が恐怖感に輪をかけています。

ちなみに、2018年に公開されたギャスパー・ノエ監督の『クライマックス』という映画も実はドラッグを映画内で効果的に使って恐怖感を観客に与えています。パーティ会場に置いてあるLSDがしこたま入ったサングリアの中を知らず知らずに摂取していたダンスメンバーたちが全員ガンギマリになり、見るも恐ろしい地獄絵図になります。そこからダンスメンバー同士が険悪になったり、隠された秘密が暴かれたり、妊娠している女性のお腹を蹴ったり、大勢の目の前でセックスをしたり…すべてLSDによって引き起こされます。しかもそれを長回しで撮るということがまたミソです。

Climax 2018

長回しをすることによって緊張感が高まる手法は多々使われていますが、『クライマックス』では「一体いつまでこの狂った状態が続くんだ!」という気持ちと「早く終わってくれ(違う場面になってくれ)」という不安を作中のLSDによってハイになった人々の恐怖とシンクロさせようとしています。これ観た後、違法薬物に手を出そうなんて絶対に思いませんよ。

ただこちらはハイになった人たちの言動と、そしてカメラワークと長回しでキマッた状態を描いています。つまり、“客観的”な立場です。

一方『ミッドサマー』はかなりおとなしめです。お花が少し変な動きをしていたり、森がユラユラしていたりと「何かいつもと違うなぁ~」といった状態ですね。

友人から聞くとあれはマジックマッシュルームを摂取した状態を描いているんだと思うよとのことでした。

「マジックマッシュルームを食べた後、公園や自然に囲まれた場所に行くと自然が生きているのがわかるし、木を触ると上に向かって波打っているように見えたりする。木から葉っぱをちぎったらその葉が徐々に生命を失っていくのも感じられたりするよ」

念の為YouTubeで調べてみたら摂取した状態だとこのような映像になるよという動画があり、確認して観たらかなり『ミッドサマー』のものと類似していました。

そしてこの幻覚が見えることと、他のホラー映画と一線を画す、始終明るい場所で繰り広げられる物語がマッチしてもいます。暗闇から何かがやってくるのではなく、明るく見渡せる景色のおかげで、何か精神と目が狂っていることがわかるのですから。

■見知らぬ土地、知らぬ言葉に囲まれて

私がこの映画を海外で観たことは凄く登場人物の心情とよりシンクロさせてくれました。なぜならこの映画の主人公たちは違う土地に行って、知らない言語と文化に囲まれている状況、つまり自分が異邦人となった存在で物事や人に触れるというのは非常に刺激的であると同時に得体の知れないスリルもくっついています。

私の英語能力は完璧から程遠く、しかもそれ以外の言語も頻繁に交わされる地や家で相手の喋っている内容が掴めないままコミュニティに迎え入れられていく様子は有り難いと同時に、心のどこかに抱く警戒心を脱ぎ捨てるには正直時間がかかりました。

『ミッドサマー』内でもスウェーデン語が話される時に、ほぼ字幕が表示されませんがこれもまた観客に主人公たち同様“異国を訪れた”感覚、つまり人が喋っている言葉がわからない状況を共有させるためです。

幾つか他のホラー映画でも海外で恐ろしい目にあうという“旅人の立場から観た恐怖”を描く作品は多々あります。今回『ミッドサマー』はそこにマジックマシュルームや他の薬物半ば強制的に摂取され、普通ではない精神状態のまま異国のしきたりに参加させられてゆく特殊な恐怖を描いていました。これは私が過去のホラー映画では味わったことのない感覚で、尚且つ海外で言葉が通じない人たちに囲まれて心細く、優しくされてもどこか猜疑心を捨てられない自分への嫌悪感なども想起させて珍しい感情を引き起こさせてくれた作品でした。

■最後のひと言

あくまで上記に記した薬物とこの映画の関係は一要素でしかありませんが、見落としやすいホラー要素ではないかと思います。私も運よく友人と観なければ掴めなかった点でしょう。

実はちゃんとホラー映画のお約束を守っている点も好きですね(生き残るのは女の子、セックスをしたら死ぬ)。

この映画のメインテーマは“心安らげる場所”を探すことだと思います。ダニーは悲劇によって突如家族をすべて失います。彼女を癒してくれるのは彼氏でもなく、旅行でもなく、薬物でもなく、遠い異国に催されるお祭りの中にありました。

家族を亡くして幾度も押し寄せる悲しみの波を穏やかにしてくれたものは一体何なのか。一緒に泣いてくれる人々がいて、クイーンに選ばれ、多くの人間に囲まれてもう孤独ではない。しかし彼女に最後に微笑みをもたらしたものは恐らくはその先にあります。精神が軋みそうな程の悲しみを抱えたまま、恐怖や絶望を通過し、やがて掴んだ微笑みは「その気持ち、わかるよ」なんて共感の遥か先、狂気の川の向こう岸にある感情ではないかと。

脚本の最後ではこう記されています。

「彼女は完全に我を失った。しかしやっと自由になれたのだ。それはおぞましく、また美しくもあるのだ」