道の駅北川はゆま

沈黙 -サイレンス-

映画

自分たちの師が遠い異国の地、日本で棄教したーその知らせを聞いた二人の宣教師が、日本にキリスト教の種を蒔き、そして師の姿を確認する為にキリシタン弾圧下の長崎へ旅立つ…

※本レビューは今作と1971年版『沈黙 -サイレンス-』のネタバレを含みます。

■階段の裏かなり原作に忠実な展開でしたね。
冒頭、宣教師フェレイラの姿と、棄教したという事実を聞かされる所は原作に忠実で、1971年の篠田正浩監督版では省略されていた箇所だ。
予算の関係上かもしれないけど、それでも物語はちゃんと成り立っていたので、映像的にはわざわざ描かなくてもいい始まりだったのかも、と思いきや、今作では原作の通り序盤も描き、そこに映画的演出を見事に盛り込んだ。
かなり薄汚れた格好で酒に酔っ払っている状態のキチジローに出会うことにより、ロドリゴとガルペの日本人像は崩れ去るのだが、大事なのはキチジローがいた場所。つまり、階段の裏にうずくまっていた、という魅せ方だ。
キチジローはキリスト教徒であったにも関わらず、脅されて棄教した人間であることが明かされ、後に家族はキリスト教を棄てなかった為に最後までキリスト教徒として処刑されたと説明がある。
つまり、彼は昇れなかった。彼は天に昇りそこねた人間であり、その後ろめたさに苦しんでいることを、階段の裏で蹲っている姿を通じて描いているようにみえるのだ。
■神の視点そしてもう一つ、これは物語の随所で見られる今作の隠れた存在を示唆するカメラワーク、つまり神の視点だ。
この映画は所々で俯瞰ショット(真上から見下ろす形の画)で登場人物たちを映すシーンがいくつもある。それが冒頭、ロドリゴ、ガルペ、ヴァリナーニョの三人が歩いて行くシーン、処刑された死体運ばれるシーン、牢屋にとじ込まれたロドリゴと何度も。そしてこれが最も抜群に効いているのが、ロドリゴが川に映る自分の影の中に神の顔を見た時だ。この時、川は反射して天が映っていて、そこに神の顔が映っているという度肝を抜かれる演出。
だけど、このシーンの凄さはこれだけじゃない。映画の終盤、フェレイラがロドリゴに語る日本の宗教感のシーンで更に神の視点の意味合いに付加させる。
フェレイラは日本における神とは何か?と日本人に解いたら大日、つまりお天道様であると答えた。その事にロドリゴは衝撃を受けるのだが、再び川のシーンを思い出してみると、ロドリゴの頭の真後ろにあったものは太陽だった。ちゃんとそのように撮っている。
つまり、彼が川の中で見た神の顔は、もしかしたら日本の中で作り上げられてしまった神の顔だったのでは?ともとれるのだ。
作中に登場する神の顔も、実際どこの、いつのものの絵なのかハッキリ描かれていないし、誰かがその実物を見たわけでもないから。だからあの神の顔は一体なんだったのか?がわからなくなり、ロドリゴの信仰の揺らぎに大きく付加させたとも、カメラワークと演出で描かれているのだ。
■祈らない者と転び他にも細かい所でこの物語本来持つ要素を底上げしている。
例えば、食事のシーン。
ロドリゴとガルペが日本に来て、初めて食事をする際、献上されたらすぐにがっつくが、他の村人たちはお祈りをしてから食べる。その様子を見て罰の悪い感じになる様子もちゃんと映しているし、その後も食事の時にお祈りはしていない。
また、ロドリゴが転ぶ決定的な瞬間。無音になってスローモーションになるが、ほんとうに文字通り踏み絵の上でころんだようにみえる。
篠田正浩版では音楽、踏み絵を踏む足、目を背ける沢野忠庵、通詞の笑み、呆然とするロドリゴの短いシーンの連続で効果的に棄教の一瞬を描いていたが、こんなはその一瞬を引き延ばしたかのようなスローモーションがある。
これは恐らく、”転ぶ”という動詞を海外の人が見た時にわからせるためではないかと思う。本来英語だと転ぶは”Fall”だけど、これに棄教なんて意味はないし、日本語でも棄教なんて言葉もその概念がなかったから、転ぶという動詞に棄教の意味を持たせたんだと思う。だから、転ぶという動詞の本来の意味を踏み絵の上でさせることにより、信仰の道から落ちてしまった意味合いを映像で描いたのではなかろうか。
■キチジローの役割キチジローの存在がこの物語の大きな部分を担っていて、彼の心の弱さが宗教を試すような役割になっている。
命が助かるならば転びます、ツバ吐きます、けれどまたキリスト教に戻ってきてしまう男。そんな彼をロドリゴ、ガルペは見下して、ウンザリしているが、彼を受け入れるかどうかが、自分の宗教の持つ力を試されると考えるところで、個人的な感情と、宗教の教えの中で揺れ動かされるわけだ。
そして、最後の最後までロドリゴの前でキリスト教徒であり続けようとしたのはキチジローだ。棄教することで、生き延びつつも、この世でもっとも長くキリスト教徒であろうとしたのは彼であるという事をロドリゴはどのように感じていたのか。
ましてや、このような弱い者の為に我々は、許しは、宗教は、存在しているのではないか?と自問する。
宗教を棄てるか棄てないか、が物語の大きなキーに中盤以降なってくるのだが、このキチジローのおかげで宗教そのものの持つ力を神の沈黙とは別の、人と人の心の中で試される要素を混ぜ合わせたのは本当に見事で、窪塚洋介の弱さと卑しさに取り憑かれたような演技は素晴らしかった。
■最後の一言私は自分は何かの宗教を熱心に信じている人間ではないけれど、宗教という概念に興味を持っている人間だ。そのキッカケの一つがこの映画の原作小説『沈黙』だ。
私が宗教を扱った映画で最も好きな一本の一つは『エクソシスト』だ。このホラー映画は別にキリスト教が凄いとか、信仰が悪に打ち勝つなんて話ではさらさらなく、人は目に見えない何かに襲われた時、目に見えない何かに祈るしかない、という姿を描いた所が普遍的な箇所の一つだと考えている。
しかも、例え祈ろうが、神は沈黙していることもこのホラー映画が持つ恐ろしさで、かつ最後に目に見えない存在から人を救うのは人であるところが非常に感動的だ。
だが、今作『沈黙』ではそれすらも聖職者に許されていない。自分の身を捧げて人を救う覚悟はあるのに、自分の考えのせいで人が苦しむには命を捧げることをしても救えず、ただ祈るのみ。
命を絶つより、魂を、精神を、殺す方が残酷な決断であることを江戸時代の日本という複雑な宗教感が入り混じる国で、日本人が描いた事に言葉を失うほどの衝撃を受けた。
私が信じているのは宗教ではなく、人は何か見に見えないものを信じる力を持っている、と考えている人間だ。
けれど、この小説を見た時、一体その力が果たして人間の幸福や、平穏や、安楽にちゃんと繋がっているのか?がわからなくなった。そしてそれは今もだ。
果たしてその答えはどこにあるのか?自分の人生の中にあるのか?それとも宗教のもっと根本的な部分、つまりこの世にいない者たちの物語の中にあるのか。
沈黙は雄弁であり、そして最も残酷な答えだ。神の沈黙の意味はと問い、それでも沈黙は続くことに絶望する。人は何かを信じる力と、そして何か信じるものを勝手に作り出している力を持っているだけではないのか?と、うすら薄ら寒くなるようなモノまで感じられる。
その薄ら寒さは、命の危険では感じられない、人間だけが持つ恐怖だ。そしてそれを描いた物語はそんなに多くない。だからこそ、この物語は暗い光を宗教や、人々の心に照らし続けるのだと私は思うのです。