道の駅北川はゆま

『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』Beyond the storytelling – 物語を越えた先にあるものは

映画

作中一度だけ言及される稀代の創作者の名前があり、それはこの物語の構成、そして画期的な試みを掴む上で非常に大きな意味を持ちます。その人物の名はウィリアム・シェイクスピアです。

この『アクロス・ザ・スパイダーバース』の物語はシェイクスピア作品のように幾多もの演劇、映画、ドラマなどに派生することについての考察があります。

ウィリアム・シェイクスピアはこれまで数え切れないほど繰り返し上演され、映画になり、間接的な題材となり、今なお語り継がれています。

劇作家や脚本家、監督やクリエイターはシェイクスピアのオリジナルのストーリーを壊すことはまずしません。その代わり、舞台設定を変えたり、性格を変えたり、性別や年齢、国籍、舞台はてはテーマすら変更することはあります。あくまでシェイクスピアの劇作家の”箱庭”の中で違った仮面や衣装を着せて違うユニバースを創造します。

しかし、前述したことと矛盾するようですが、あえてシェイクスピアの作品を題材にしつつ、物語の展開、しまいには結末まで変える試みが行われることがあります。

『アクロス・ザ・スパイダーバース』は正にその限界に挑んでいます。

スパイダーマン&ウーマンというヒーローは大切な人の死に心に深い傷を負ったキャラクターというのが絶対条件として”定められて”いる、言わば運命論的な世界観を強制された存在です。それは第一作目の『スパイダーマン:スパイダーバース』でも他の次元からきたスパイダーマン&ウーマンたちによって言及されています。

トム・ホランド版スパイダーマンでは皆が飽き飽きしているであろうベンおじさんの死はサッと通過させ、明るさが強調されたシリーズになるかと思いきや『ノー・ウェイ・ホーム』でやはり大切な人の命を目の前でなくす経験をします。

作劇上はキャラクター・デベロップメント、つまり成長させるためにトラウマや強烈な経験を与えてそれにより引き起こされる反応を脚本家はドラマに盛り込みます。

さて、問題はここです。

果たして、キャラクターを成長させるために決められた宿命を聖典になぞるように与えてしかるべきか?という問いです。

シェイクスピアであれば「ハムレット」の父の死が有名でしょう。まさかハムレットの父親の死をなくして物語は成り立つことはないでしょう。

ショーは続けなければいけないのと同様、主人公は打ちのめされるほど酷い経験をしなければならない。しかしそれは何のためか。主人公のためではありません、物語のためです。

登場人物を成長させ、物語を加速させ、終わりへと向かわせるために感情を弄ぶようなことをしなければならない加虐性は筆を走らせるものには勿論一定程度必要だと思います。

しかし『アクロス・ザ・スパイダーバース』でついに主人公マイルス・モラレスが定められた運命を知り、乗り越えようとします。登場人物がドラマツルギーに反抗したのです

実際にメタフィクションの手法を使う作品には登場人物が自分は物語の中にいることを知覚し、それについて指摘したりギャグを放ったり暴れたりします。

しかし今作ではその自分の未来は定められていることをマルチバースによって悟ることができ、しかもそれは物語上の構成のトリックなどではなく、主人公マイルスの心の動きから「そんなのは嫌だ!」と強烈な感情を基にしている点が決定的に違います。ロジックや思考実験の面白さではなく、あくまで感情のドラマの線上にメタフィクションでなければ知り得ない運命論を自覚してしまう点が非常に画期的です。

物語の類型を破壊しつつ、しっかりと主人公マイルス・モラレス、そしてグウェン・ステイシーのドラマとして成立しているのは現ハリウッドの中でベストofベストの脚本家フィル・ロード&クリス・ミラーの力量によるものでしょう。彼らのストーリーテリングの実験的でユニークでギャク満載のスタイルは、『レゴ・ムービー』や『ジャンプストリート』シリーズでも堪能できますが、長くなるのでここでは記しません。

さて、この『スパイダーバース』の世界観をシェイクスピアと結びつけて考えた方は私だけではありません。色んな役者が同じキャラクターを演じ、異なった物語を似た韻を綴ることをシェイクスピア的で、それぐらい意義あることだ、と表現した人。それは私が知る限りただ一人、過去のインタビューでそう喩えたアンドリュー・ガーフィールドだけです。

https://www.digitalspy.com/movies/a279642/garfield-spider-man-is-like-shakespeare/

この作品の欠点としてマイルスと家族の関係の描写に時間をかけ過ぎだという意見もありますが、私はむしろ絶対に必要な要素だと思います。我々観客はある程度知っているから、その過程を如何にスムーズに省略するかは作り手や観客フレンドリー精神の問題で、キャラクターの内面の問題ではありません。『アクロス・ザ・スパイダーバース』におけるマイルスと家族の関係、グウェンと父親のつながりと全体のバランスは間違っていないと思います。決して蔑ろにせず、かといって時間をかけ過ぎない絶妙な按配。だからこそ、観客はマイルスがスパイダーマンとして定められた運命にNoを突きつける行動に迫真性と共感を得ることができるのだから。

もっと云うと、そのようにスパイダーマンの話におけるテンプレ的展開だからといって聖典(=つまりオリジナル)通りにやるだけで、登場人物の心情に真摯に向き合おうとしない作り手や、受け手に対しての批評にもなっているので絶対に必要な要素であり時間であったというのが私の持論です。

観終わった観客が何人も続篇『ビヨンド・ザ・スパイダーバース』を観るまで死ねないと書いていますが全く同感です。このキャラクター達の行く先と、物語の結末が自分の人生の一部分として気になってしまうのはこの映画が強固な魅力を備えている証左です。『スターウォーズV』を初めて劇場公開時に観た観客に限りなく近い気持を感じられる僥倖に感謝しています。様々なスパイダーマンの人生や世界を縦横無尽に横断(アクロス)し、定められた悲劇を知ってしまったマイルスが起こす行動と下す決断は、彼のスパイダーマンとして定められた”運命”を超える(ビヨンド)ことができるのか。

私たちは神話の時代から続いてきたストーリーテリングというものが、この『スパイダーバース三部作』よって上の領域へ昇る瞬間を目撃できる人々になれるのだと確信しています。フィル・ロード&クリス・ミラーはそういう脚本家ですから。