道の駅北川はゆま

シュガー・ラッシュ:オンライン

映画

前作で大親友になったラルフとヴァネロペちゃん。それから現実と同じく六年の月日が流れても二人は変わらず仲良くゲームの世界で暴れていました。しかし「シュガー・ラッシュ」のコントローラーが壊れたことにより存続の危機が訪れます。その解決のカギは無限に広がる世界、インターネットの世界にありました…

ネタバレ前提のレビューです。観賞後に読まれることをオススメします。

■インターネットの世界のヴィジュアル

■物語の繋げ方について

■ディズニープリンセス達が敷いたコース

■インターネット世界のヴィジュアル

今作の魅力はいくつもありますがまずは映像描写について触れておいた方がいいでしょう。前作『シュガー・ラッシュ』ではゲームの住民たちの世界を描写していました。延長コードがまるでターミナルのようになっていて、各ゲームの世界に行き来できるというアイデアを映像で見せる驚きがありました。今作では更にインターネットの世界の内側を映像化するという試みを行っています。この点は前作同様私たちが日常で見ているものの裏側の世界を描くというものに共通しています。ちなみに当初の予定ではディズニーのゲーム「ディズニー・インフィニティ」の世界にラルフとヴァネロペが行くというものでしたが、インターネットの世界を描くという方が挑戦的で、尚且つ前作で試みたことの一歩先を行っているので結果こちらの方が良かったと私は思います。

同時にインターネットの世界の描写にはディズニー映画『インサイド・ヘッド』の影響もあると思います。こちらの作品も同様誰もが知っている(感情や思考や記憶)のに映像として見たことのない世界を舞台にしていることと、その世界の構造がしっかりと物語上にしっかりと重要な要素として機能している事も共通しているので、恐らく参考にしたと思います。その点については次の章で解説します。

このように私たちが現実で知覚しているものを違った手法を用いて再構築するというのはアニメーションが潜在的に秘めている可能性でありディズニー映画が一番最初からずっと行ってきたことです。『白雪姫』では童話を、『ファンタジア』では音楽を、『トイ・ストーリー』ではオモチャの世界をアニメーションによってヴィジュアライズしてきました。その流れで『シュガー・ラッシュ』シリーズでは一作でゲーム、今作でインターネットの世界をアニメで描くことに挑んでいます。

実は『シュガー・ラッシュ オンライン』のようにインターネットの世界を舞台にした物語は過去にあります。それは『マトリックス』のことではなく、『FUTURAMA』というアニメの一エピソード「A Bicyclops Built for Two」です。

このエピソードの最初に登場人物たちがインターネットの世界に直接行くことができることになったので、早速訪れると最初に目の前に広がっていたのは辺り一面の「広告」でした。そして彼らが次々と主人公たちに襲い掛かってきます。「広告」の襲撃から逃れると、その先にはインターネットの大都市が広がっていました。このインターネット世界の描写はお話の導入部なのでほんの数分なのですが、『シュガー・ラッシュ オンライン』以上にインターネット世界の本質をついています。なぜならアダルトなネタがたくさんあるからです。しかも直接見せるわけではなく、非常に上手いやり方で楽しませてくれます。ちなみにこのエピソードは後にエミー賞の一部門を受賞しました。

これは『シュガー・ラッシュ オンライン』では踏み込めなかった要素でしたね。キャスおばさんを怪しげな広告に使うということで攻めてはいましたが、さすがに子供の観賞も想定にしているためにどぎついネタはできませんでしたね。

ちなみにこの『FUTURAMA』のSupervising Directorは『シュガー・ラッシュ オンライン』の共同監督の一人で、『シュガー・ラッシュ』の監督であるリッチ・ムーアです。前作でも実は『FUTURAMA』の引用がありましたが、それは『シュガー・ラッシュ』のレビューをご覧になって下さい。

http://www.hyuga.jp/blog/view/cinema/861

■物語の転ばし方について

次に物語の運び方について。

当初のこの映画の目的はゲーム機「シュガー・ラッシュ」の壊れたコントローラーハンドルをインターネットの世界で探し出すというものです。eBayで見つけた二人は意味も分からずまま競り落とすことができましたが一銭も持ち合わせていない為24時間以内に購入資金を稼がないといけないのですが、ここの「27,001ドル」という金額の設定が上手いですね。

映画やドラマに触れている人ならここで「ははん、あとできっとこの一ドル足りないことで波乱が起きるんだろうな」と予想すると思います。

しかし、そんなことは全く起きず、ラルフはユーチューバーとして目標金額を軽く超えます。ただ、その一方でヴァネロペちゃんはディズニープリンセス達の部屋を訪れ、プリンセストークを繰り広げている中で「空からの光が貴方を照らし、水面に反射(リフレクション)する自分の姿を見つめる時、詩を歌うのよ」と助言されます。

このシーンは別の意味を含んでいるのですが、それは後に回します。

ここから当初の目的だった「シュガー・ラッシュ」の世界を救うという目的が大きく変わります。物質的なお宝を求める話から、内面的な話に移行していきます。

この映画はインターネットという世界を舞台にしているので多くのネット文化からのネタの引用が次々と登場していきます。様々なアプリやユーチューバー、しまいにはダイヤルアップ回線からダークウェブとネット世界の始まりから闇の世界まで画面に登場します。それらを矢継ぎ早にバンバンぶっこんでくるのを味わうだけでも楽しいのですが、それに加えてディズニーネタまで被せてくるので大忙しです。

ただ、それらが単なるギャグのネタに留まらず、ちゃんと物語上に必然的な要素として絡ませる方が非常に上手かったです。コンピューターウイルスを手に入れるためにダークウェブの世界に行くことも理にかなっていますし、何よりヴァネロペちゃんがディズニープリンセス達との会話をして自分のこれからの生き方を思索し始めるところも説得力がありましたね。

ヴァネロペが現状の変化のない生活に漠然とした不安を抱いているのは冒頭でしっかりと描かれていましたし、それを瞬間的にではありますがラルフが新しいコースを力技で作り上げることによって解消された事と、映画の後半ではヴァネロペの新しい世界への挑戦の前に立ちはだかるのが同じくラルフであるという構成が見事でした。

ラルフがヴァネロペを遠く離れた危険で自分の手が届かない世界に送り出すことへの悩みが彼女の安全のためなのか、それともずっと続いてほしいと思う日常を保つためなのかがわからないままコンピューターウイルスによって彼の意識が増幅してコントロールできなくなる様子も象徴的でお見事でした。しかもラルフのキャラクター造形の元ネタであるドンキーコングの元ネタである『キング・コング』へのオマージュも差し込んでくるこの巧さ!

物語の結末では二人は別々の世界で生活をしてゆくことになりますが、時折電話をして直接会えない寂しさを埋め合わせている様子は多くの人々の琴線に触れると思います。

違う中学校や高校に進学してしまった友達、

地元から遠く離れた街へ旅立ってしまった親友、

親元を離れ独り立ちしようとする子どもの姿、

などとラルフとヴァネロペの姿は重なります。

自分の求める道を歩む時に背負う寂しさと、その背中を見送る切なさ。この映画は「別れは決して終わりではない」ことを幾度も思い出させてくれて、別れの季節に人々に寄り添う楽しくも優しい映画になっていると思います。

■ディズニープリンセス達が敷いたコース

予告編通り映画内でもディズニープリンセスが一堂に会するシーンがありました。私は事前に予告でそのシーンを観た瞬間からこれはディズニープリンセス映画を観直しておいた方がいいなと思い、記憶が不鮮明だった映画を観直していました。これは正解でしたね。

各プリンセスが自分の能力や武器、特徴をうまく使ってラルフを助けるシーンが何倍も楽しくなるのはもちろんなのですが、この映画は絶対にある事に言及するだろうからです。

それはディズニープリンセスの定義についてです。

ディズニー映画は自分たちの作った過去作品に対して非常に強い意識を抱えながら最新作を作る傾向があります。それは『リトル・マーメイド』のアリエルによって『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』のプリンセス達とは違って自らの願いへ能動的に行動する女性を描きました。親からの反抗というカウンターカルチャーも添えてね。

アリエルというキャラクターは過去のディズニープリンセス像からの解放の役割を果たしたプリンセスです。その後に『美女と野獣』のベル、『アラジン』のジャスミンと続きます。前者ではプリンセスが男性を成長させる役割を果たし、後者では基本的にアリエルと共通して生まれもった定めからの解放を描いていますが初のヨーロッパ圏ではないプリンセスという点で画期的でした。

ただ、どの作品も結局はプリンスと結ばれてハッピーエンドというものからは解放されませんでした。それをひっくり返したのが『ポカポンタス』と『ムーラン』でした。

『ポカポンタス』は史実を大幅に捻じ曲げたことによって複雑な評価になってしまいましたが、根本にはディズニープリンセス像を拡げたかったのだと思います。しかし次の『ムーラン』にて革新的なことが起きます。

ムーランはディズニープリンセスの中でかなり異質な存在です。なぜなら高貴な血を引いてもいないし、王族と結婚どころか恋にも落ちていません。そして最も他のプリンセスと異なる点、それはディズニープリンセス史上初めての実存主義者ということです。

彼女は作中で歌う「リフレクション」の中で鏡に映る自分を見ても他人のように思えると吐露します。両親が望む良き妻になれないことに哀しみつつ、本当の私とは何か?を池やお墓に反射する自分の姿に問いかけることを止められない。その後に自分とは何か、何者なのか、を探す旅にでます。彼女が男装して戦地に赴くのは年老いた父を行かせない為ではありますがそれはあくまでキッカケで、根底には自分とは何かを社会的役割や女性であるからというものから離れた所にあるのかもしれないという彼女の内的動機が秘められています。

『ムーラン』の後のプリンセス(海外ではディズニーリバイバル期と呼ばれています。これは現在進行形です)になると『魔法にかけられて』のジゼルから過去のディズニープリンセスの定義を如実にひっくり返したり、逆手にとってギャグにしたりする動きが強まりそれが繰り返し行われます。それでいて、プリンスが登場しない作品(『メリダとおそろしの森』のメリダ)やパートナーの男性と行動しても恋愛関係に少しも発展しない(『モアナと伝説の海』のモアナとマウイ)作品が次々と新しいディズニー像を作り上げていきます。ただ、最も上手いディズニープリンセスへの再考は『ムーラン』の中の「リフレクション」であり、未だ到達できないレベルだと思います。

ちなみに「Reflection」という単語には「深く熟考する」という意味もあります。『シュガー・ラッシュ オンライン』で言及されている通り水面に反射する姿を見ながら歌うことをヴァネロペは勧められますが(原語版ではその時にムーランがヴァネロペにむかって“reflection”という言葉を投げかけています)、これは『白雪姫』が井戸の水に反射する姿を見ながら歌っていたことを指していますが、実は『ムーラン』の「リフレクション」もその文脈に基づいています。しかしその歌詞の内容は「いつか王子様が」というまだ訪れていない幸せや夢を望むのではなく「私とは何か」と綴る哲学的な問いかけを何も答えてくれない反射する自分の姿に投げかけるものになっています。

『シュガー・ラッシュ オンライン』でも水面に反射する姿を見て唄い出すシーンがありますが、それが泥水だというギャグになっていますが、その裏には『白雪姫』『ムーラン』が作り上げた文脈があります。その道をなぞって唄い、ヴァネロペは「スローター・レース」に自分の居場所を見出します。

■最後のひと言

『シュガー・ラッシュ オンライン』のヴァネロペが思い悩む問題はムーランが抱えた問題に比べては正直弱いのですが、確かに彼女もディズニープリンセスが敷いてきたコースの上を走り、彼女たちが到達した地点とは違ったゴールへと進もうとした女性であることが描かれています。ただ着地点は過剰に気張ったものではなく、自らの力を違った世界で試してみたいという男女問わず多くの人が共感するものになっています。

ヴァネロペは目標とする人物としてではなく、自分の選んだ道を進む時に寄り添ってくれるようなプリンセスになって、「シュガー・ラッシュ」よりも「スローター・レース」よりも、もっと複雑で、難しい、だけれども様々な景色が広がる人生のレースを私達と共に走ってくれるプレイヤーになってくれるでしょう。